発災から二週間後のあの日

撮影年月日 2011/03/24
陸前高田市高田町字山苗代37-12
震災直後、陸前高田スポーツドームは単なるスポーツ施設の枠を超え、市民の大きな拠り所となりました。館内には携帯電話の充電器が備えられ、安否確認や情報収集のために多くの人々が列をなし、ひとときの安心を得ていました。また、各紙の新聞が置かれ、誰でも自由に手に取ることができたため、避難生活の中で先の見えない不安を抱える人々にとって、状況を知る大切な窓口となりました。当時は、充電器を求めて米崎方面から歩いて訪れる人の姿も見られ、その背中には切実さがにじんでいました。スポーツドームは、地域の人々が情報を共有し、つながりを確かめ合う場所として大きな役割を果たし、避難生活の心強い支えとなったのです。
米崎小学校 現在:洪水・土砂災害緊急避難場所指定

撮影年月日:2011/03/24
陸前高田市米崎町字川内1
震災直後、米崎小学校の校庭には全国から集結した自衛隊車両がずらりと並び、普段の学校とはまったく異なる、緊張感と頼もしさが入り混じった独特の雰囲気に包まれていました。その広い校庭には仮設のお風呂も設営され、震災以来なかなか湯に浸かることができなかった人々にとって、大きな憩いの場となりました。湯気の立ちのぼる仮設風呂に入り、久しぶりに温かさを感じた時の安堵感は、言葉に尽くせないほどだったに違いありません。米崎小学校はまた、自衛隊の前線基地としての役割も果たし、地域の安心を支える拠点となっていました。さらに、同様の自衛隊や警察車両の拠点は住田町にも設営され、広域的に被災地を支える大きな力となっていたのです。

撮影年月日 2011/03/26
陸前高田市高田町鳴石112-11
震災後、陸前高田市給食センターの施設は、救急活動の拠点として重要な役割を担っていました。全国から集まった救急車両がここに並び、消防署や警察と連携して司令塔のような機能を果たしていたのです。給食センターの並びには、被災した陸前高田市役所の仮庁舎や福祉協議会などの事務所が置かれ、行政や福祉の中心としても機能しました。その前の広場には国土交通省の指揮車両が設置され、一帯はまるで臨時の本部のような物々しい雰囲気に包まれていました。
震災前、陸前高田市役所やふるさとセンター(社会福祉協議会)は館の沖地区に、消防署は裏田地区に建てられており、いずれも津波の浸水想定区域に位置していました。昭和35年のチリ地震津波の際には、高田松原で波高が約4メートルにとどまったことから、「今回も大きな被害は及ばないだろう」という油断があったのかもしれません。しかし、東日本大震災の津波は想定をはるかに超え、公共施設までもが壊滅的な被害を受けました。そのため、高台にあり津波の影響を免れた給食センターやスポーツドームといった施設が、急遽、行政・救援活動の拠点として利用されることになったのです。


米崎公民館 現在:陸前高田市指定避難所

撮影年月日:2011/03/26
陸前高田市米崎町字川向14-1


訪れた時は移動検診車が建物の側面に二台止まっていて、被災された方達の検診をされていました。この米崎公民館は米崎小学校の近くにあり、また、交通の要所となる国道45号線(通岡道路)の傍に立地している場所です。震災でいくらか被害が有ったみたいですが、現在は耐震工事などもなされ、より良い避難所として名前も米崎コミュニティセンターと改名されました。
まとめ
震災直後の混乱を越え、陸前高田の町には「支える仕組み」が次々と形を成していました。スポーツドームでは情報や電源が確保され、米崎小学校では自衛隊の設営したお風呂が人々の心身を癒し、給食センターは全国から集まった救急・消防・警察の拠点となりました。さらに米崎公民館では検診が行われ、地域の健康を守る場としての役割を果たしていました。
それぞれの施設には、単なる建物を超えて「人々を支える居場所」としての意味が宿っていました。全国からの支援が陸前高田に集まり、そこで暮らす人々の強さと結びつくことで、混乱の只中にも確かな歩みが築かれていたのです。
二週間という時間は、長いようでいてあっという間でもありました。しかし、その間に積み重ねられた数々の取り組みは、確かに「生きる力」をつなぎとめるものでした。振り返れば、あの日々こそが未来へ向かうための大切な一歩だったのだと思います。
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